こないだ久々にスーパーフォーミュラの取材だったんですが、改めて思いましたよ、速いって(笑)。特に富士だから、直線が! 最初の走行となった金曜日の専有走行なんて目がついていきませんでした。315km/hにも達しているんだから、そりゃもう。6月はローカルレースばっかりだったから、いちばん速くてF3とかFIA-GT3ですからね、仕方ありません。
その中でもとびっきり速かったのが、国本雄資選手でした。予選はQ1、Q2、Q3とセッションごとタイムを短縮し、決勝もぶっちぎり! 残念ながらピットストップの直後にサスペンショントラブルに見舞われ、リタイアを喫してしまいましたが、もし何事もなく走り続けていたら、どのぐらいの差をつけて優勝していたんでしょう? そのぐらい速かったですね。予選を終えて、こう言っていました、「ル・マン24時間に出て得られたことはたくさんあって、いつもとは違う環境の中で走らせてもらって、勉強になったことがいっぱいありました。帰ってきた日本で、強いところを見せたいと思っていましたが、こういう結果で表せて良かった」と。いや、実際そんな感じでした。それだけにリタイアが残念でしたが……。
そんな国本雄資選手のキャリアで、いちばん印象に残っているのが、「兄は大変なんですよ~」という言葉で、本人じゃなく兄の京佑選手から発せられたもの。お父さんも叔父さんも全日本カート選手権で活躍していて、ふたりとも同じキャリアをたどっていただけに、今のご時世であれば、いずれ揃って四輪レースにステップアップして来るんだろうな、と思っていたら、やっぱり。FTRS(フォーミュラトヨタレーシングスクール)を受講し、1歳上の京佑選手を追う格好で2007年、FCJ(フォーミュラチャレンジ・ジャパン)に出場。揃って入賞を果たした記者会見での話でした。ただ、当時は兄を追いかける弟、という印象も強かったのは事実。兄にしてみれば牽引している意識はあったでしょうが、追いつかれてたまるかというのもあったんでしょうし。それが先のコメントに表れていたというか……。
翌08年にはFCJでチャンピオンを獲得、09年に全日本F3に出場しますが、その時すでに京祐選手はフォーミュラ・ニッポンへ。08年にマカオGPで優勝したことから1年で卒業を果たしたのに対し、雄資選手は2年を要したからです。ただし、じっくり修行した甲斐あって、10年には開幕10連勝という偉業をも達成。王座を獲得して、11年にはF・ニッポンにたどり着きます。しかし、その頃すでに京佑選手はレース界を離れていました。トヨタF1の活動終了により、夢だったF1ドライバーへの道が事実上絶たれたためです。
一方、雄資選手は周囲からの期待とは裏腹に、低迷が続きます。それは今にして思うと、追いかけてきた目標を失ったことも、少なからず影響しているのではないかと。12年から挑むことになったGT500でこそ、13年に優勝を飾るも、スーパーフォーミュラ(SF)ではなかなか勝てず。表彰台に上がるのに4年を要するなど、想像もしていなかったのではないでしょうか。けれど、所属するセルモ・インギングは手放すことなく、ずっと見守っていたのは、きっと秘めたる才能の開花を待ち続けていたんだと思います。
そして、15年にはチームメイトの石浦宏明選手がチャンピオンを獲得。一方で9位に甘んじましたが、チャンピオンを得られる環境ということが、雄資選手の何かを刺激したんでしょう。やがて低迷の理由のひとつとして、モノコックにダメージが及んでいたことが明らかに。交換を直訴し、果たされた16年には2勝を挙げてチャンピオンを獲得し、さらにGT500でも移籍して1年目のLEXUS TEAM WedsSport BANDOHで、1勝をマークしてランキング4位に。その前の2年間は1勝も挙げられずにいましたから、まさに復活と言ってもいいでしょう。
GT500では復活、SFでは飛躍を果たしたことがきっかけになり、ル・マン出場のチャンスを与えられ、それが速さを増す秘訣にもなったというのは、冒頭で触れたとおり。決して順風満帆であり続けたわけではないから、今得られている自信はデビュー当時以上なんじゃないでしょうか。GT500でも、今季初勝利を早く期待したいものです!
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モータースポーツジャーナリスト。大学在籍時からモータースポーツ雑誌編集部に加わり、90年からフリーランスに転身。以来、国内レースを精力的に取材。本当に力を入れたいのは、非メジャー系レース。特にエントリーフォーミュラのスーパーFJに関しては右に出る者はいないが、並ぼうとする者もいないのが悩みの種?スーパーGT(主にGT300)とスーパー耐久は全戦取材を予定。6月14日生まれ、東京都出身。