本当は今回、東京オートサロン(TAS)の話題を書く予定でした。ところが、10日になって今宮純さんの訃報が。とてもTASの取材どころではなくなって、行くには行ったけど、気もそぞろという感じでした。実は、直前に知らされてはいました。2日前に私の所属する記者会の賀詞交換会があり、高橋二朗会長から会員のみに。その席で出席者にも報告しようという話も出ましたが、遺族の意向を配慮しようということになり、黙祷はウエストレーシングカーズの神谷誠二郎さんだけに捧げられることになりました。
そう、神谷さんに続いて今宮さんも、若い頃からお世話になった方々が、相次いで帰らぬ人になってしまいました。もう、残念というか、すごくショックです。お二方とも、もう少し話がしたかったという思いでいっぱいです。
もともとレース好きでした私にとっては、今宮さんは憧れの人でした。F2の中継でのレポーターもさることながら、今はなき「オートテクニック」で執筆される原稿も大好きで。「誰のレポートかな」なんて思いつつ読んでいる、一風変わった中高校生時代を過ごしたものですから。それが縁あって、大学生になったばかりの秋、そのオートテクニック編集部でバイトに入れることになり、当然、今宮さんにも直接お会いできるようになったわけです。
当時は今宮さん、国内レースの方に主軸を置いていましたから、私も富士スピードウェイを訪れて最初はラップチャートを担当。そういう現場でお会いしたのがファーストコンタクトですね。あ、ちなみにその頃、モニターなんてものは一切存在していません。スタンド側にあったプレスルームと称する部屋のベランダで、ひたすらゼッケンを書きまくっていました。他には……、ほとんど人いません(笑)。当時はパドックとスタンドの動線がか細くて、行くのが大変だったんです。
それでレース後に、富士霊園の先をまっすぐ行った、今はハム屋のある場所の裏にある「風神雷神」って食堂に編集部のスタッフや今宮さんたちとレース後に集まって、レース中に何があったか、つけ合わせしていくんですね。当然、ラップチャート担当の私は「誰々は、何周目に順位入れ替えた?」とか今宮さんに聞かれ、速攻で答えるという役割でした。
そうそう、土曜日の晩は須走の旅館で、楽しい話をしたもんです。近所の肉屋で生ハム買ってきて、喜ばれたこともあったなぁ。その旅館で「オートテクニックの同窓会やらない?」って今宮さんに言われたこともあったんですが、「あそこ、代替わりして、感じ変わっちゃいましたよ」なんて言って、実現できなかったことがすごく今となっては悔やまれます。
まだFAXが普及していない時代でもあったので、私が直接原稿もらいに行ったこともありましたね。忘年会の終わった後に、「うちで飲もうよ」ってお誘い受けたことも。ムードのある音楽かけて、ワインとか飲んでカッコいいんだ、そんな感じが。当時の私たちはバカみたいに騒いで、安い酒ばっかり飲んでいたもので(笑)。
それと当時、オートテクニックでは今宮さんが決める「日本自動車レース大賞」ってのをやっていたんですが、その中の「FJ小僧賞」は私が決めていました。ほら、F1で忙しくなって、そのあたりは直接見られないでしょう。でも、「秦くんが勧めてくれるドライバーなら、大丈夫だ」って信頼してくれたのは嬉しかったですね。今だから言える話ですけど。
でも、一番の思い出は、F1パドックパスという単行本の製作をお手伝いしたこと。今でこそすっかり疎遠になってしまった私ですが、一時はF1も守備範囲にあったので、フリーになって間もなく誘ってもらったんですね。今、思うと「ちゃんと食えてるのかな」ってご配慮もあったんだと思います。これはかなり気合が入った。実際、すごくいいものができたと思うし、翌年には続刊も出たんですが、それがちょっと焼き直し感が強かったのが、裏目に出てしまったのか、3作目の発行には至りませんでした。今でもAmazonでびっくりするくらいリーズナブルに購入できるので、その時代を知りたい方は是非!
近年は私の守備範囲がこうですから、記者会の総会か賀詞交換会で年に一度会う程度でしたし、すっかりご無沙汰していた私が、こんな思い出を振り返るのは僭越かもしれませんが。やっぱり書かずにはいられませんでした。神谷さんの時よりちょっと時間を置いたので、こうしていろいろ振り返ることができました。本当に残念ですが、安らかにお休みください。
モータースポーツジャーナリスト。大学在籍時からモータースポーツ雑誌編集部に加わり、90年からフリーランスに転身。以来、国内レースを精力的に取材。本当に力を入れたいのは、非メジャー系レース。特にエントリーフォーミュラのスーパーFJに関しては右に出る者はいないが、並ぼうとする者もいないのが悩みの種?スーパーGT(主にGT300)とスーパー耐久は全戦取材を予定。6月14日生まれ、東京都出身。